スタークルーザーというのは、おいらが高校生くらいの時にやったSFアドベンチャーゲームでだね。当時はものすごく高度な技術だったポリゴンでの3D空間描画を実現させたゲームだったんだ。ゲーム自体も面白くてね。主人公はスタークルーザーという宇宙船に乗っていろいろな星を旅するんだ。3Dで出来た広大な宇宙を、自由にどこまでも飛べる。スタークルーザーは宇宙の広さを体験させてくれたな
音楽もいいんだなぁ。この音楽を作った人はきっと、音楽的才能を持ちつつさらにFM音源を知り尽くした人が作ったんだろうな。(FM音源というものは、昔一世を風靡したシンセサイザーの一種です。安いものはパソコンゲームや家庭用ゲーム機に内蔵されていました。現在でもその表現能力の高さから、携帯電話にも内蔵されています)
こないだ急にスタークルーザー熱が発生したので、おもわずEGG MUSICというサイト(昔のゲーム音楽を格安でデータ(mp3,wma等)配布してくれているありがたいところ)でStar CruiserのBGM集(MEGADRIVE版)を購入してしまったもんね。やっぱすばらしいですよ。宇宙への憧れとかいろいろ溢れてくるよ。
絵は、ゲーム「STAR CRUISER」で主人公が乗る宇宙船。
ベアナックルIIIの音楽はもっと評価されるべきだ。なぜ放っておかれているの。
あれほど執拗に執拗にエディットされたチップチューンはこの他存在しません。
今聴いてもこれがメガドライブのみで鳴っていた音とは信じがたい。
こないだ、ワンダと巨像を買って遊んだ。ものすごいやらされている感がしたよ!これほど自由度を感じさせないゲームは久しぶりにやった気がする。まだ途中なんだけど。(4匹目)うーん。
巨像を倒したあとの空々しさというのがすごい。それは、あらかじめ決められた一本のスクリプトが終了した、という味気ない感覚と、名前も性格もわからないヒロインのために、プレイヤー側に正義のないまま巨像を殺すというゲームデザインにあるんじゃないか。「最後の一撃は、切ない。」というのは本ゲームのTVCMのキャッチコピーだが、切ないという言葉よりは、虚しい、という言葉のほうが正しい気さえする。
再認識するのは、ゲームというものはやはりプレイヤーの欲望をゲームの中で昇華させるプロセスを楽しむものじゃないのか、ということで、こと本ゲームに関しては、助けるべきヒロインに感情移入できない。ヒロインを生き返らせるために巨像を倒すことに納得がいかない。結果、主人公が、天上の声のおもちゃにされているように感じる。巨像を倒すと悲しく切ない音楽が流れ、それが合理でないことを示唆している。巨像は、自身のテリトリーを侵さない限り攻撃してこない。プレイヤーの欲望がまったく昇華されてないように感じる。期待して高いお金払った分がぜんぜん取り返せる気がしないのでタラタラ書いてるんだけど。いやまぁ、最後までクリアしたなら評価も変わるかもしれないんだけど、とりあえず超期待したゲームなのに、なかなか続きに手をつける気持ちにならないのはなぜなんだろうかと思って。
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